2017/11/16
ずーーーっとこういったことをこわい・いやだ、と、おもっているけれど、しってることもいままでしてきたことも、あたまのつかいかたも、なにかのえらびかたも、あたりまえにほんとうは(ほんとうに)だれにも奪われたりしない。そうおもうけど、そういううごきがあるといつもすごくきずついてしまう。
ちかいひとにはなしたパーソナルなぶぶんをとおいひとにぶちまけられたくなどないひとは一定数いるだろうし、じぶんのきじゅんでの、だれかの評価は、ほかのひとにとってのそれではないんだから、かってなうごきでそれらのイメージ(とりだした事実も含めて)を植えつけるべきでない、とわたしはおもうのでしない(でも、すばらしくてよいひとのことはじゃんじゃんはなす。)そして、なにかの意図をかんじる植えつけには反応しないようにきをつけるひつようがある。常だけれども、過程のぶぶん、たいせつなのに、つよいところだけがへんに抜きだされがちなので。
かかわるひと、それぞれとのちょうどいい距離をみつけて、相手もじぶんもたのしく過ごせるようにきをつけるだけで、すごくよくなるのに。だれかとじぶんのあいだでの、べつの他者の存在などちっぽけだよ。たいせつなのはつよいことばでもエピソードでもなくて、かわいい行動のひとつひとつだし、ちかいということそれ自体ががいいことってわけでもない。
ただもう、どうしてもすこしだけでもそういううごきのなかに身をおかなくちゃいけないときは、だいすきなひとにおいしいものをつくったり、いっしょにおいしいものをたべにいったり、とにかくたくさんねむったりすることをえらぶ。そうしたらそのうちきっとどうでもよくなる。
たんと寝ておいしいごはんをたべなさい そのうち雨もやんでくるから
じぶんのうたにちょっとすくわれたな
2017/11/09
ちかさがとおいひとに、私的なこと、しられたくなかったな。
きっと、おもしろおかしくなるんでしょうが、当事者のわたしにとって、それはそういうながれにのせられるようなものじゃなかった。
でも、はれているめだまで、きれいなけしきをみて、きこえづらくなった耳で、いいおんがくをきいて、げんきになれるようになった。
たべるもの、ねむるばしょ、あそぶひと、たびのりゆう、おかねのつかいかた、みらいのえらびかた、覚悟をきめて、よいとおもうほうをえらぶ。せつないくらい、くやしいけれど、そちらがいきたい場所だってこともある。
だれかがえらんだことに、くちだしするなんて、ほんとうはできないはずだよ。
森はゆくぼくはひかりに手をひかれ かみさまたちはきみをまるつけ
2017/09/18
しまうまの尻尾でぶたれるゆめをみる いらないひとをすてる日のあさ
よくたべること ねむること だいじなことがなにかもうちゃんとわかってる
2017/06/25
いやになるほど、こころがもろくって。
天気予報みるのをやめてあいされるじゅんびをすこしととのえてみる
こんな短歌をつくったけれども、ゆく日もくる日も、そんな準備はととのわない。
きずついたよ。
ちがう軸の地球に、いまのわたしとはちがう選択をしたわたしがいるとおもって。ちがう地球には、しあわせなわたしがいる、と胸をはるけれど、ほんとうはねむるときに毛布がピンとはっていないと眠りにつけないこどものわたしが、いまここで、涙うかべている。
わたしがなりたいのは、ハッとするほどどっしりとしていて、まちがっていてもまっすぐなひとなのに。