2017/11/16
ずーーーっとこういったことをこわい・いやだ、と、おもっているけれど、しってることもいままでしてきたことも、あたまのつかいかたも、なにかのえらびかたも、あたりまえにほんとうは(ほんとうに)だれにも奪われたりしない。そうおもうけど、そういううごきがあるといつもすごくきずついてしまう。
ちかいひとにはなしたパーソナルなぶぶんをとおいひとにぶちまけられたくなどないひとは一定数いるだろうし、じぶんのきじゅんでの、だれかの評価は、ほかのひとにとってのそれではないんだから、かってなうごきでそれらのイメージ(とりだした事実も含めて)を植えつけるべきでない、とわたしはおもうのでしない(でも、すばらしくてよいひとのことはじゃんじゃんはなす。)そして、なにかの意図をかんじる植えつけには反応しないようにきをつけるひつようがある。常だけれども、過程のぶぶん、たいせつなのに、つよいところだけがへんに抜きだされがちなので。
かかわるひと、それぞれとのちょうどいい距離をみつけて、相手もじぶんもたのしく過ごせるようにきをつけるだけで、すごくよくなるのに。だれかとじぶんのあいだでの、べつの他者の存在などちっぽけだよ。たいせつなのはつよいことばでもエピソードでもなくて、かわいい行動のひとつひとつだし、ちかいということそれ自体ががいいことってわけでもない。
ただもう、どうしてもすこしだけでもそういううごきのなかに身をおかなくちゃいけないときは、だいすきなひとにおいしいものをつくったり、いっしょにおいしいものをたべにいったり、とにかくたくさんねむったりすることをえらぶ。そうしたらそのうちきっとどうでもよくなる。
たんと寝ておいしいごはんをたべなさい そのうち雨もやんでくるから
じぶんのうたにちょっとすくわれたな